貧乏脱出大作戦

貧乏脱出、貧乏を考える

 

貧乏な人たち・・・。
昭和の時代に貧乏な人たちは当たり前なのです。
そして、貧乏な人たちにロマンさへ漂っていたのです。
1970年代に神田川と言う歌が大ヒットしました。
誰もが日本国中神田川に共感して、そこにロマンを求めていたのです。
銭湯へ二人で行って、石鹸がカタカタ鳴っている世界です。
今、現代社会の人たちが見て、こんな歌がヒットしていたなんて思えば驚きなのではないでしょうか。
私達は今、貧乏な人たちと無縁なのでしょうか。
実際に、私達の国家が裕福になりました。
昔のようにお金に困ったと言う人たちもあまりいなくなってしまったのでしょうか。
そして、昭和の時代、日本国民全員が貧乏な人たちだったために、ロマンが貧乏から作られていたのです。
現代社会で貧乏な人たちはいるかもしれません。
しかし、そういう現代社会の貧乏な人たちにロマンは発生せず、マイノリティーの為排除させられようとしているのです。
臭いものに蓋をしめる感じです。
私達は、貧乏と相反し、商品経済の囚われ人になってしまっている事態、逆に悲観的に思うことは出来ないのでしょうか。
商品経済のものに囲まれて貧乏でなくなった人たちのもとに神田川のようなロマンスは理解出来ないと存在しなくなってしまったのです。

貧乏な人たちはものの価値観も、ロマンスもしっかり理解出来ている人たちです。
しかし、もう一度昭和に戻ることも私達は出来ませんし、進むべきを進む以外道はないのでしょうか。
敢えて、私達が貧乏な人たちの道を選択するというのもおかしな話しではありませんか。
私達の現代社会に出来ることは、ものの価値を再度見直すことなのです。
ささやかながら、個人個人で、商品経済に抵抗してみせる主張なのです。
ものが溢れて、ものが購入出来る世界はひょっとしたら夢の世界かもしれません。
しかし、余りにも当たり前過ぎてその価値観にも私達は気付かなくなってしまっているのです。
今ここでもう一度昭和にも戻り貧乏について考えてみましょう。

 

貧乏な人たちはどうしても

 

貧乏な人たちは貧乏でない生活を夢見ているのです。
そして、貧乏でない人たちが当たり前と思っている一つ一つの事柄が欲望のようにキラキラ輝いてしまい、かなり現代社会において貧乏な人たちは焦っていることでしょう。
昔の日本なら、日本国民全員貧乏な人たちだった訳ですから、そういう焦りも劣等感もなかったことでしょう。
しかし、現代社会の貧乏な人たちは劣等感も、焦りも持っているのです。
貧乏もなかなかやってみるといいもかもしれません。しっかりものの価値観を味わうことの出来る人たちです。
ものの価値などやっぱり貧乏な人たちが持っているもの
かもしれません。しかし、なかなかそういう域に到達することも出来ずに私達はマジョリティーの力にながされようとしているのです。
マジョリティーの平均値に到達するためにもやっぱり私達は貧乏を脱出していかなければならないのです。
かし、貧乏脱出の方法は・・・。
私達の世界は差異の世界です。
マジョリティーの力は、マイノリティーの貧乏の人たちを必要としているのです。
だから、一度貧乏になった人たちは、貧乏というレッテルを貼り付けられたままなかなか抜け出すことも出来ないのです。
一体、貧乏な人たちが貧乏抜け出す方法が果たして存在しているのでしょうか。
そんな可能性見つけだすことが出来る人たちははじめから貧乏生活などしてないかもしれません。
貧乏な人たちは勢い任せにギャンブルに走ります。
そして、借金にもまみれてしまうのです。

 

貧乏な人たちが貧乏脱出計画を行っています。

 

貧乏な人たちが貧乏脱出計画を行っています。
そこに借り入れという発想が登場します。
借り入れすることは貧乏な人たちの解決方法です。
クレジットカードで、キャッシュカードで借り入れしたら、あの牛丼屋で大盛りの牛丼を食べることが出来ます。
私達は、クレジットカードや、キャッシュカードで借り入れして生き延びることが間違いなく出来ます。
瞬間的な幸せもここで得ることが間違いなく出来ます。
しかし、その幸せ感は束の間の筈です。
それは、クレジットカード、キャッシュカードで貧乏でなくなった人たちは、返済しなければならない義務が誕生します。
結局そういう人たちは瞬間的にクレジットカードやキャッシングで生き延びることは出来ても、それ以上は労働して借金を返済しなければならない、
そして、今後労働の賃金によって牛丼を食べなければならない非情感を持ちます。
借金とは一体なんなのでしょうか。
考えるいいチャンスがここにあります。
この人は、クレジットカードによって、キャッシュカードによって何が救われたというのでしょうか。
確かにクレジットカードとキャッシュカードは、この人を救いました。
それは、借金出来なければ飢え死にしている可能性もあります。
そして、借金による後悔によって今度労働して賃金を得なければならない義務感にかられたことなのではないでしょうか。

まだ返済しなければならない意識を持っている人たちは貧乏な人たちでも正当な人たちなのです。